自分の力で行くんだ
学生時代、オーストラリアの研修行きを
母に却下された私はそれであきらめるつもりはなかった。
今年度がだめなら来年度があると思っていた。
だから今年いっぱいバイトして来年は必ず自分の力で行くんだと心に決めていた。
そのためにも安定したバイト先を見つけなければならない。
でもファーストフードの店は2店経験してもうこりごりだった。
が他の時間が折り合うバイトがなかなかなかった。
そのころ妹は大学入試に失敗して毒母に言い渡されていたとおり、
就職活動を余儀なくしていた。
そして学校の推薦にも乗り気でなかったので母に虐げられていた。
そんなときたまたま神社経営の結婚式場のアドバイザーの仕事があり、そこに就職した。
私は妹の紹介でそこの付属のレストランにバイトとして入ることになった。
結婚式場なので普段は忙しくないが正月と土日は
人手が欲しいということだったのでまさに条件がぴったりだった。
同僚の高校生の女の子たちが新米の私にいろいろなことを教えてくれた。
厨房にいるおじさんやおばさんたちもみんな親切だった。
そしてここの責任者のAさんも厳しいけれどやさしい人だった。
上智大を出ていて英語が堪能、バイトの女の子たちともふざけるけれど
けじめのきちんとした人でみんなはどうしてこんなところにいるのか不思議がっていた。
Aさんが結婚式場で忙しいときにはバイトのチームワークで
乗り切ったので仲間の結束も固かった。
だから働きやすい職場で卒業まで勤め続けられたのだと思う。
ただ残念なことに後味の悪いやめ方になってしまったはの
私に
私にとって苦い思い出でもあるのだが。
こうして私は3年の春からここにバイトに入り、
土曜の授業も来年とることにしてお金を貯めはじめたのだった。
足もと
今から24年ぐらい前、まだ私が学生の頃、妹の紹介してくれた結婚式場のバイトは人間関係も良好で2年ぐらい勤めました。でもこの仕事は最後の日に後味の悪いやめ方を余儀なくされました。それは支配人の一言からでした。
その日は日曜日で結婚式のお客でロビーはにぎわっていました。支配人が業者との打ち合わせでロビーにコーヒーを運ぶ仕事を私は頼まれました。粗相もなく、普段通り引き上げようとすると「このお茶の出し方はなんだ!」といきなり怒鳴りつけられました。あとから考えてみれば支配人は自分の権力を誇示したかったのだと思います。
業者の人は震え上がっているし、周りの人は何事かとこちらをみています。私も「申し訳ございません」と賢く立ち回ればよかったのかもしれませんが若気の至りとあまりのショックに「私はミスしていません」といってそのまま職場に戻ってきてしまいました。
同僚が心配して声をかけてくれましたが私は泣き崩れてしまいました。その支配人は宮司でもあったのですが普段から態度が尊大で人望がなく、何人かの社員はいつも辞表を胸に入れて働いていました。だからこうしたことは後から考えると日常的に起こっていたはずです。
私が落ち着いて職場のみんなに事情を話すと調理場にいたおばさんたちも厨房の窓から顔をだして「あの人は絶対畳の上では死ねないよ。かわいそうにねぇ。」と口々に言いました。たぶん普段から裏方さんににまで恨みを買っていたのでしょう。それほどみんなの同情は熱がこもっていました。
そのころかわいがってくれたレストランの責任者のAさんは既に退職していてSさんが代わりを務めていました。このころベテランの社員の人が入れ替っていたのでSさんも気が立っていたのだと思います。それに奥さんが結婚式場の出入りの花屋だったのでそうした立場もあったのでしょう。Sさんが飛んできて「支配人にあやまってくれ!」とはちみついろに命令しました。
私はそのころ横断歩道を歩いているときバイクにつっこまれ、むち打ちになって1ヶ月ほどバイトを休んでいました。この日の出勤が最後の日だったのです。その1ヶ月のお給料は加害者の保険からおりることになっていてSさんがその書類を書いてくれることになっていたのです。そんなわけで謝らないわけにはいかず、Sさんにつれられて納得できないまま、支配人に謝りにいきました。
すると支配人はさっきとはうってかわって「きみは本当は頭のいい子なのにそんな態度をとってどうしたんだね。今日が最後だっていうじゃないか。まあ、がんばりたまえ。」といいました。私は「申し訳ありませんでした」といったきり、ずっと自分の足もとをみていました。
それからSさんに書類を書いてもらいました。Sさんの表情はほっとしたようでした。不本意ながら支配人にあやまったけどこの人の首がつながっただけでもよかったと私は職場を後にしたのでした。
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