今日は習い事についてです。
去年の夏休みに我が家の子供たちは短期水泳教室に通っていました。
2日目だったと思いますが下の子が更衣室でだだこねしました。上の子はやる気満々にみえたのですが上の見学室でみていたらプールサイドで妹の影に隠れて大泣きしているのです。
15人いる班の列も乱れてしまっているし、下の子は二人いる先生の一人にずっと抱っこだし、本当に申し訳ない気持ちになってしまいました。
私がアダルトチルドレンだから何か子供たちを不安にさせる要素があったのではないかと自分まで責めて気分が重くなりました。
そこへきて隣に座っていた面識のないお母さんたちが「あーなっちゃうともーダメだよね。水泳は苦手だって意識になって子供も通わなくなっちゃうよね。幸い、うちの子は何とかやっているけどサー。」と話しているのです。
この言葉は胸に刺さりました。私のせいで子供たちが水泳に対していやな気持ちを持ってしまったらと思うと子供にも申し訳ないと思いました。
でも私としてはいろんなことを体験して子供たちの選択の幅が広がればとの動機だったのですがなんとも居たたまれない気持ちになってしまいました。
そのうち時間が半分くらいたってようやく二人が落ち着いて練習に取り組み始めたので少し安心しました。
このとき思い出したのがヤンキース松井秀樹のお父さんの本の中の言葉でした。
「子供が成長するに従い、学校をはじめ地域社会へと子供の行動範囲は日に日に拡大していきます。ここまで成長すると親だけで子供を本当に健全な人格に育成するのはなかなか困難になってきます。多くの大人にかかわってもらっていろいろなことを教わり、叱咤激励されなければ成長しません。家の外には当然、さまざまな考え方を持つ人がいます。そういう人たちの指導に素直に順応しうるかどうかでその子の伸び方にも大きな影響が出てくると思います。またそこには親にはできない子供に絶対必要で重要な育成が隠されています。」というものです。
我が家の子どもたちにはこのことはまだ早いかもしれません。
でもアダルトチルドレンの私にとって別の意味で考えさせられました。
子供の成長にしたがってまわりの人の助けが必要ならば今の現時点でも「親の自分が足りないところは習い事を通じてまわりの人に助けてもらえばいいのではないか」と思ったのです。
習い事というと、とかく技術の向上を目指して他の子と比べたり、親がやっきになってさせるという図式が思い出されますが別の視点があってもよいのではないかと感じたのでした。
コメント
Wow. I was COMPLETELY stuck and this brought back a great story for me to write about, though only faintly attached to any memory of mine. Thanks!