ドクターストップがかかったのだ
銀行をやめた私は、しばらく家にいるつもりだったが子供たちのワーキングメモリーの問題が出てきて二人を塾に行かせる必要が出てきたため、また働きに出ることになった。
勇気を与えてくれたのは洋裁教室のおばさまだった。おばさまのお嬢さんが学生時代、長いことバイトしていた大手スーパーYの鮮魚売り場に勤めていた。「大手だし、技術も身につくし、いいと思うよ」とおばさまがお茶のみの時間にいうのだった。確かに朝は早いけど子供たちが帰ってくる時間までに家に帰れる、洋裁教室にも曜日を変えずに通えるということでそこで働くことに決めた。
YスーパーのD店長は鮮魚売り場の人手が足りないということで「ホント助かるよ。ありがとう。ありがとう。」といつも口にしている人だったし、同期に入った台湾人のCさんも話しやすくてやさしいひとだった。入った当初はいじわるなひともいなかったし、ここなら働き続けられるかなとほっとしたのも束の間でしばらくしてD店長が北海道に転勤することになった。
新しいE店長は意地の悪い人だった。特に新人のWさんと私に対して理不尽なことを言ってきたり、いきなり怒鳴られたりした。人によっても気分によっても態度コロコロ変わるので周りの人にもすこぶる評判が悪かった。
そのうち、就職氷河時代にパートとして入社したBさんが自分が新人時代、いじめられたということで私をターゲットに無視したり、意地悪をしだした。いままでの店長と夫婦漫才のようにやり取りをしていたが前のD店長がいなくなったのを機にいじくる相手を変えたのだと思う。Bさんは言葉のよくわからないWさんには親切に、私にはいじわるをしてその職場に君臨していた。
職場ではBさんがいないと仕事が回らないので長くいる女性社員Fさんもことあるごとにブランド品をプレゼントしてBさんの機嫌をとっていた。Fさんは以前、サービスカウンターにいたのだが致命的なミスをしたがどうしても辞めたくなくてこの職場にたどりついたとのことだった。ジンクスで子供がいなかったので時間的にも経済的にもFさんは自由だったというのもあったかもしれない。だからBさんは職場ではとても大事にされていて怖いものなしだった。
新しい店長は私よりもWさんに厳しく、いじわるでよく怒鳴っていたが、Bさんのいじめの対象は私だった。Bさんが新人の頃、いじめられたのと同じことを私にした。
このころ私はアダルトチルドレンのにおいを消すために人間関係に対していろいろ工夫しだしていた。相手との心理的距離を縮めるために言葉の語尾を崩したり、相手の喜びそうなことを言うようにしてリップサービスのテクニックとして使うようにしていた。突破口を得るためにいろいろやってみたものの、E店長にもBさんにもほとんど効果はなかった。
そのうち、春から働きはじめて夏が過ぎて秋になったころ、私は風邪をひいてしまった。はじめは無理をして行っていたものの、病院にいっても調子が悪くて出勤できなくなるほど起き上がれなくなってしまった。
病院の先生がいうには冷凍庫に出入りして冷蔵庫のような職場で身体が悲鳴をあげているとのことだった。いままでは夏場だったからよかったけれど冬場に入ってもっときつくなるから職場にはいってはダメといわれた。ドクターストップがかかったのだ。
私は大手スーパーYの総務課にかけあって職場替えをお願いしたが支店長の答えは「NO」だった。鮮魚で身体が冷えるからというのが理由だったが「それなら他に行ってもだめだろう」と一蹴にされた。パートが働くのは厳しいのだと身をもって感じた。
私はその足で職場にあいさつに行ったがE店長は事前に不在だった。その日で私は職場を後にした。
本当に心にしみる言葉だった
Yスーパーの鮮魚売り場をやめた私は自分探しをしながら仕事を探すのはとても大変だと思っていた。自分のやりたいことを仕事にすると子供たちの教育費が稼げない。
また、このころは、子供たちの勉強を必死でみていた。またそろそろ受験にさしかかる上の子の塾探しや学校さがしにも奔走していた。子供の勉強は自分で教えようと奮闘していたがいくらやっても効果がなかった。私は自分で教えることに限界を感じていた。
子供たちの未来を思うと仕事は必要だった。でもいまは子供に手がかかる。いろいろな思いの狭間の中で私は迷いながら進んでいた。
また、このころは不況でよい就職口がなかなかみつからなかった。そしてだんだんと年齢の壁というものが私の前に立ちはだかっていた。
とりあえず、短い時間で働けるスーパーの食品売り場で働いたが、ここでもアダルトチルドレンのにおいは消せなかった。女性の職場だとすぐ嗅覚が働くらしく、水と油のようにうまく職場に溶け込めなかった。なんでここで働いているのだろうと何度、自問したことだろう。
息子がいよいよ受験をするのにあたって県外の学校だったこともあり、いろいろな受験準備をしながら下の子の勉強も同時に見なければならず、私はノイローゼになりそうだった。そんななか、仕事は契約期間が切れるのを見計らってやめることにした。
しばらくは子供のことに専念しよう。そう決めた。子供たちにはいま私が必要なんだ。いま子供たちを支えなければいつやるのだろう。
お金は貯金を崩して当座をしのぎ、そのあと考えればいいではないか。自分にそう言い聞かせて苦しい時期を乗り越えようとした。
いま、あらためてその時のことを振り返るとそれでよかったと思う。上の子は行く学校に悩み、自分では身動きできなくなっていた。私が支えていなければどうしていいのかわからなかったと思う。それは最近、母の日によこすその時のことが書いてある感謝メールをみるとよくわかる。
子供と母親の関係を示すこんな言葉がある。
乳児は(母親は子供と)肌を離すな、幼児ぐらいになったら(母親は子供の)手を離すな。少年少女ぐらいになったら(母親は子供の)目を離すな、思春期になったら(母親は子供と)心を離すな。という七田家の子育て45のルール 「できる子」が育つより本の抜粋である。
私は子育てをするのにあたってこの言葉を座右の銘にしてきた。だからその時は、どんなに苦しくてもここで母親として子供の心を離してはいけないと思った。
仕事より大切なことがある。それはあとからでは取り返しがつかない子供が親を必要としている時期というものがある。いま、子育てを振り返るとそれは本当にそうだったな、と思う。
アダルトチルドレンの私は、いろいろな育児本もたくさん読んだけれど、これは本当に心にしみる言葉だった。
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