私の祖母の介護
はちみついろの父方の祖母は若くして未亡人になった。父方の祖母は明治生まれ。農家に生まれ、小学校しか出ていないけれどクラスではいつも級長を務めるくらい優秀な人だったようだ。
いま祖母の実家は県下でも納税額が上位のお金持ちなのだが昔は現金収入がなかったため、初めの結婚はサラリーマンを希望したそうだ。嫁のもらい手は引き手あまただったらしい。(父の話)
最初の夫を鉄道事故で亡くし、女の子一人を連れてなくなった夫の兄と再婚した。夫の兄も妻に先立たれて子供を3人抱えていた。亡くなった夫は鉄道員だったため、遺族年金が出ていたが再婚するとその手当がもらえなくなるため、長い間、内縁の妻だったようだ。だから父の兄弟は10人いるのだが祖父と祖母の間に生まれたのは6人ということになる。父はこの話をしたくないようで直接聞いたことはないが母が言っていた。
祖父の実家は庄屋の家系だったらしいのだが祖父の父と長兄が大酒のみで身上をつぶしてしまったらしい。その実家を支えるため、祖父は自分が働いたお金を付け届けていた。昼は畑で働き、夜は杜氏の仕事で朝は3時の頃から畑に出ていたそうだ。
でも父が中学生の時、夜中に杜氏の仕事の見回りにいって帰らぬ人となった。一酸化炭素中毒で倒れて亡くなった。いまでいえば労災扱いだが一銭もでなかったそうだ。その後を長兄である叔父が継ぐことになるのだが叔父は責任の重さに月をみて泣いたときいたことがある。
祖父の母は父や叔母にに言わせると「とんでもない嫌なばあさん」で祖父の存命中は自分の母親を歓迎したため、たびたび1ヶ月滞在したようだった。
祖母方の母はとても優しくて父は大好きだったと言っていたし、祖母も母親に甘えに子供を連れてしょっちゅう実家に帰っていたようだったが姑は煙たかったようだ。(父談)
祖母はこの自分の兄弟とのつき合いを生涯大事にした。祖母は米寿と白寿のお祝いをしたのだがその時も自分の兄弟の子供や孫の代の人をお祝いの席のリストに入れ、招待した。孫の私たちはそのお祝いの席には呼ばれなかった。
祖母は白寿のお祝いを毎日指折り数えて待っていた。子供時代、祖母は私たちに「内緒だよ」といってよくこづかいをくれた。無口で怖そうな祖母だったがそのときばかりはとても嬉しそうな顔をした。そして祖母の家に泊まると眠りにつく前、祖母はいろいろな数を数えていた。子供や孫の年のこともあったし、自分の年のこともあっただろう。
だから年を取って白寿のお祝いは祖母の最大の生き甲斐であり、楽しみであった。その後、生き甲斐がなくなってすぐ亡くなってしまうくらい心の支えだったのだ。
祖母は足が60代で足が悪くなって70代で骨折してからずっと車いすの生活だった。叔母が本当によく介護したので最後をのぞいて寝たきりにはならなかったが自分で身体が動かせないぐらい太っていたし、身の回りのことに関しては完全に子供がえりしていた。ただ頭はしっかりしていて自分の虎の子の心配ばかりしていた。
でも祖母は本来、人寄せが大好きな人なので自分の家でお念仏があると人のいるところに出たがった。叔母はそんな祖母に気持ちをくんでそうした席に同席するように配慮したが心ない人は「あそこまで長生きはしたくないわね」と陰口を言う人もいた。叔母は気の強い祖母の相手や大勢の兄弟に揉まれ、大変だったと思うがよく祖母に仕えたと思う。そんな陰口にもめげず、耳の遠い祖母は出席続けた。本当に自分というものが強い人だったと思う。
でもはちみついろが祖母の立場だったらそんな兄弟筋の遠い関係の人より、自分の子供や孫に囲まれて米寿や白寿のお祝いをしたいと思った。祖母は自分が長生きしたことをとても誇りに思っていたとは思うけれどその気持ちが強くて大切なものを見落としていたのではと思ってしまう孫がいる。
そしてあんなに心配していた虎の子は亡くなった後、とうとう出てこなかった。それがあれば叔父や叔母はそれで葬儀をしただろうに陰も形もなかったそうだ。
そして形見分けではちみついろにはひ孫用に古そうな製薬会社のビーチボールを1つもらったきりだった。お金はあの世に持っていけないということを強く感じた。
祖母が仲良くしていた実家のお嫁さんは自分の死期を悟ると子供や孫、ひ孫に一人ずつお金を包んで渡したそうだ。その人はお金持ちだったにも関わらず、親戚でとてもケチだと有名な人だったけれども。「とてもいいお金の使い方をしたな」とはちみついろは思った。
お金はお金でしかない。でも気持ちを伝えることはできるのだ。そしてそうしたことで子供や孫に偲んでもらえ、とてもいい形で後の人のお手本になることができたと言う点でとても学ぶところがある。
自分がどんなおばあさんになるかは自分次第である。
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