責められるとフラッシュバックが起きる【私の体験談】

毒親育ち

本記事では本記事では毒親育ちから回復するために

必要な事柄【フラッシュバック】について

毒親育ち50年以上の私がお伝えします。

私は、25年前に試行錯誤して結婚して子育てしましたが

毒親育ちにかなり苦しめられました。

今回のグリーフワークを心に留めて

一歩踏み出せばあなたはよけいな回り道をせずに

毒親育ちから回復することが可能になります。

最後まで読んでみてくださいね。

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子供ながらに地獄を耐え抜いた

私がアダルトチルドレンの傷をより深くした別の
要因がありました。それは母以外の女性で先生た
ちです。
 
特に小学校456年のときの担任だったS先生と
中学3年の担任だったM先生と高校時代のG先生
とピアノの先生だったS先生です。
 
どの先生も独身で優秀、キャリアウーマンとして
エネルギーがあふれ、自信に満ちていました。
 
そして微妙な年齢の狭間でどの人もヒステリック
に子どもを叱るというところがありました。
 
私はおとなしくてとろくて先生に標的にされるこ
とが多かったのです。
 
たとえば小学校のS先生ですが私がみんなと同じ
ことをしていても私を的にして叱ることがよくあ
りました。
 
具体的にいうと冬寒さに手がかじかんでいた時、
椅子と自分のももの間に手を入れていましたが
教室に入った瞬間、私を真っ先に怒鳴りつけま
した。
 
他の子はいっせいに手を出して何食わぬ顔をし
ていましたがあとで友達が「みんなやっていた
のにねぇ」といったのにはひどく傷つきました。
 
勉強のことにしてもいつも先生の目の届くとこ
ろで一番前に座らせられ、あとから考えると生
徒いじめではないかと思いました。
 
それが3年間も続いたのですからたまったもの
ではありません。
 
母の攻撃とともに学校でも先生の監視の目が光
り、つらいものがありました。
 
その4年前からピアノのS先生についていたの
ですがこの先生もまたヒステリックで私はよく
怒鳴られていました。
 
特に先生が怒り出すと頭の中が真っ白になって
しまい、できることもできなくなってしまうの
です。
 
私はいまでも人に何かいわれたり、責められる
とフラッシュバックが起こります。
 
それは母の虐待が影響していたのだといまなら
わかるのですがその頃の私は、先生からいわせ
れば「飲み込みの悪い、おどおどした女の子」
だったのです。
 
最終的に先生のすすめで音楽の道に進むことに
なるのですがこのレッスンも地獄のようでした。
 
何をするにもそうだと思いますがそれを極めて
歩みつづけるというのは大変なことです。
 
ピアノのS先生も学校を卒業して音楽教室をや
っていましたが声楽家でもあったので自分の勉
強もしていました。
 
そんな時ふと自分の微妙な年齢や声楽家として
やっていきたいのに、なぜ私は子どもにピアノ
を教えているんだろうとピアノのS先生は思っ
ていました。
 
それは家の母から先生がそういっていたとあと
でききました。
 
詰まるところ、S先生と同じ門下生の友達は外
国に留学してコンクールで入賞して音楽家とし
て地位も名声も手に入れたのにいったい私は何?
と考えたのかもしれません。
 
でもそういう感情の波が生徒にもろ降りかかる
のです。私はここでも先生の餌食でした。
 
先生は独身でエネルギーにあふれていたので30
分のレッスンのところ、1時間延長するというの
も当たり前にやって一生懸命やってくれたとは思
いますが、母と同じでエネルギーがみんなそこに
集まってしまうのですから、はけ口もそこしかあ
りません。
 
また後から考えると、音楽家独特の習慣しか知ら
ない、ある意味で世間知らずなところがあり、自
分の考えに自信を持ってそれを生徒に押し付ける
ところがありました。
 
このダブル、もしくはトリプル攻撃を私は小学校
時代からずっと耐え忍んで我慢してきました。
 
母と学校は逃げられない、ピアノはやめようと思
えばやめられたけれど母が絶対に許しませんでした。
 
「あんたにはそれしか取り柄がないんだから」と。
 
そもそもピアノをはじめたのは、母の子どもの頃の
夢だったからです。
 
S先生に怒られながらも学校では伴奏したり、鼓笛
隊の指揮などをしていたので母はそう思ったのかも
しれません。
 
結果的にS先生が私の音楽性を認めて、音大に進む
ことになったのですが、音楽は私にとって音が苦で
した。
 
中学時代のM先生もまた私につらくあたりました。
 
私は進路希望のとき、公立希望だったので、市内の
学校に行きたいと希望を出したのに無理だから隣の
町の公立にしなさいと何度もいわれました。
 
押し切って最終的には市内の公立に合格したのです
が。
 
家庭訪問でも私の悪いところを並べ立て言い置いて
いくものだから、母のねちねちいう文句の数が増え
ます。
 
この先生は生徒の間でもえこひいきすることが有名
でした。
 
高校時代のG先生は私が大学に合格できないとはじ
めから思っていたようでした。
 
合格を報告しにいったら「じゃあ音楽の実技のほう
で受かったのね」といいました。
 
そしてピアノのS先生は「勉強のほうで受かったの
ね」というのです。
 
でもそのとき私は先生といっても、あてにならない
なと思いました。
 
だって勉強も実技もある基準以上に達しなければ、
合格することはできないのです。
 
それは私に対する二人の評価がそういわせているの
だと感じました。
 
こうして私の性格は形成されていったのですが子ど
もながらによく我慢したと思います。
 
理想とする女性が周りにいなかったというのも悲し
かった。
 
でも今は自分で自分の人生を選び取ることができま
す。自分自身を育てなおすべく回復への道へと歩ん
でいきたいと思っています。
 
 
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毒親育ちにまた手痛い傷を残した

このようなつらい地獄の子供時代をおくってまでな
ぜ私は音楽をやっていたのだろうと考えます。
 
いまでも楽しさ、やりたいという気持ちより、つら
さや悲しみが先に思い起こされてしまうのです。
 
音楽をはじめたのは幼稚園の年長からでした。
 
動機は母が子どもの頃から、憧れていたお稽古事だっ
たからです。
 
はじめは近所の先生のところに習いにいっていました
がその先生が出産して子育てに専念するということで
Y音楽教室のS先生につくことになったのです。
 
S先生は厳しく、感情に波のある人だったので子ども
ながらに大変でした。
 
付き添いできているあの母でさえ怒られると狭いレッ
スン室から逃げ出していたのです。
 
先生は熱心だったのでレッスン時間が延びてしまい、
音楽教室のお店が閉まってしまって先生が最後に戸締
りして帰るというほどだったのです。
 
しまいにはその先生のために別のレッスン室が増築さ
れるほどでした。
 
先生のレッスンは本格的なもので、途中で止めていく
人も数多くいました。
 
そこに情熱を注いでいる状態だったので、熱く激しく
情熱をぶつけていたのかもしれません。
 
私が小学校6年生のときにそこを引き払い、自分の家
の方で教えることになり、3つ先の駅まで週一回通う
ことになりました。
 
母が絶対やめさせてくれなかったし、自分の取り柄は
それしかなかったから、ついていったように思います。
 
自分の家で教えることになったS先生は、以前にもま
して熱心に教え始めました。
 
発表会が年2回あって生徒さんも大勢いて先生はレッ
スン室まで建ててもらって飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
 
冬のクリスマス会は連弾でメインのテーマである、
「ピーターと狼」のお話を通して変わりばんこに弾く
のですがそれは主な生徒さん達で占められ、私は入れ
てもらえませんでした。
 
だから先生にとっては私は蚊帳の外の生徒だったので
す。それを証言するのに私の世代では、最終的に受験
生が2人残ったのですが「一番優秀な人とできない人
が残っちゃったわね」という言葉に表れていると思い
ます。
 
優秀な人は県下でも1番という、進学校に越境で入学
したMさん、できない人というのは私のことです。
 
それを本人を目の前にしていうのですから、とても傷
つきました。
 
音楽に進むきっかけになったのは、高校に入学して母
が調律士になったらと言い出したことからでした。
 
母は手に職をつけた方がいいというのです。
 
確かに一理あるなと思い、先生のところに相談に行き
ました。すると何の風の吹き回しか、私には調律士の
仕事より音楽に進んだほうがよいと言い出したのです。
 
後に先生は私にむかって「何であの時そういっちゃっ
たのかしら」と後悔していましたが。
 
そして高校1年の夏から音楽の道に進むため、以前に
もまして厳しくてつらい地獄のレッスンが始まりまし
た。
 
週一回S先生のところで声楽を習い、月に2回は反対
方向の駅へ2つ行ったところのS先生の友達のD先生の
ピアノに通い、私があまりにもできが悪いということ
で途中から市内のN先生のところへ聴音を習いに行っ
ていました。
 
S先生とD先生は厳しく、N先生はやさしく私に接して
くれましたが音楽とは何かということを叩き込まれま
した。
 
特にD先生はS先生とはまた違った厳しさで怖さゆえに
必死で練習したような覚えがあります。
 
D先生はピアノ科でピアノが副科の私でも本格的なレッ
スンをしました。
 
部屋にグランドピアノが2台並べてあり、私と一緒に自
分の楽譜で練習曲を弾かれます。
 
怒り出すとピアノを弾くのをやめて、私の手をぴしゃり
とぶつのです。
 
つらくて泣き出しそうになると「何故泣くのっ」とまた
叱られ、我慢してピアノを弾き続けます。
 
そうすると涙は鼻から出てきて鼻水だらだらで弾き続け
たことも何回かありました。
 
先生は本当に怒ると部屋を出て行ってしまい、じっと待
っていなければなりません。
 
そしてレッスンが終わった後に耐え切れないときは、S
先生に電話するので私は針のむしろにいるようなもので
した。
 
S先生はその電話をもらって私に会うとあわれみに似た表
情で「私ならこんな忍耐、耐えられないわ」というのでし
た。
 
「もうやめる?」と聞かれたこともありましたし、「合格
しないと思うけど」とあきらめ顔で言われたこともありま
した。
 
でも母がこれまで大金を使っていたので途中で止めること
は絶対不可能だとわかっていたし、私自身途中で投げ出す
のは嫌でしたので歯を食いしばって頑張りました。
 
S先生には受験を決めたときから、声楽を教えてもらいまし
たが発声法から練習曲、オペラのさわりまでみっちり仕込ま
れました。
 
厳しいレッスンでしたがその代わり2人のおかげで入学後は
それなりの成績を収めることができました。
 
N先生はS先生とは違って家庭を営みながら、静かに音楽を
細々と続けていた方でした。
 
できない私を叱りつけることなく、先生と生徒というより
一人の人間として尊重してくださいました。
 
「自分はSさんと違って音楽からは離れてしまったけれどこ
れでいいのかと思って迷うこともあるのよ」と穏やかに率直
な意見を聞かせてくださることもありました。
 
私にはS先生やD先生よりN先生のほうが人間的に深みがある
ように感じられました。
 
確かにS先生やD先生は優秀であるかもしれません。
 
でも優秀であるがゆえに私をさげすんでいた部分があるのも
事実でした。
 
母からもつらい仕打ちを受け、厳しいレッスンに耐え、よう
やく私は高校生活の最後に合格という切符を手にしました。
 
あの3年間はいろんな意味で無駄にはなっていないとは、思
いますが私の心にまた手痛い傷を残したのも事実です。
 

まとめ

こうしたフラッシュバックから回復するのは
自分自身が強い意志を持って
自分の問題に取り組む必要があります。

いずれにせよ、まずは自分が生きづらい原因を
見つけることが大切です。

また、自分だけで解決が難しいなら
心理カウンセラーに相談することをおすすめします。
回復への手助けもしてくれます。

ただし、デメリットとして料金が継続的に
かかります。

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