家族の病気と虐待

もみじ生活

今日は上の子どもの病院に行った。幼稚園から帰ってきたら体に細かい吹き出物があちこちできていたからだ。幸い、様子をみるようにいわれたが大したことはなかった。

でも以前にも書いたが私は子どもの病気に敏感である。なぜなら母の健康や病気に対する無頓着な計らいにより、母自身はもとより、妹や弟が命の危機にさらされてきたのをみてきたからだ。

妹は母に動けなくなるまで学校に行かされ、肺炎になりもう少しで危ないところだった。

また、母は私を産んだとき、私が逆子だったので帝王切開で出産した。その傷で弟の出産のときに子宮が破れて母自身、命を落としそうになったのだ。

これについては何かにつけ「あんたは私を苦しめて」と散々言われてきた。でも祖母の証言によると「(私が)逆子だとわかっていたのに体操をしなかったからよ」といっていた。また出産する病院も祖母任せだった。だから帝王切開になってしまったのもある意味「自分の責任だ」と祖母は言うのである。私は本当の所はわからないがそう言われ続けたことは正直、「自分のせいなのかな」と悲しく思った。

とにかく出産直後、母は産院から救急車で大きな病院に運ばれ、すぐに輸血が必要な状態だった。子宮はめちゃめちゃで父は「取りますがいいですね」と念をおされた。輸血はとにかく集められるだけ集められた。でもその中に悪い血が混じっていてそれがもとで母は輸血後肝炎になった。だからそのまま1年半ぐらい入院生活を余儀なくされた。

そしてその間父と私と妹は母方の祖母と一緒に暮らすことになったのである。祖母は国家公務員として働いていたのでいつも家にいるわけではなかったが私達のしつけにとても厳しかった。それは母の子ども時代の教育を垣間見るようだった。

弟は父方の叔父と叔母にあずけられた。叔母は子どもがいないとはいえ、いままでも甥や姪の面倒をよく見てきた人だった。でも60代近いのに一日6回の弟の授乳はきつかっただろうと思う。

でも他に方法がなかったのだ。保育園はいっぱいで入れなかったし、父方の祖母は高齢で母方の祖母は働いていた。私と妹は小学生だった。

そして母が退院しても養生が必要ということで弟は引き続き、私達とは別に生活していた。そんな中、弟が原因不明の病気になった。何日か、かかりつけの小児科に通ったがいっこうによくならない。夜中に電話しても居留守を使われる。業を煮やした両親はようやく大きな病院に弟を連れて行った。診断の結果は「川崎病」だった。むろん即入院だった。

弟は小さい体に砂の重しをのせられ、点滴を打たれ治療されていたらしい。推測なのは子どもは院内感染するからとの理由でお見舞いにはいけなかったからだ。また家族のなかに病人が出てしまった。

私と妹は弟のおむつをよくたたんだ。学校から帰ってきても友達とは遊べなかった。いろいろがまんしなければいけないことも多かった。でも家族がそろって暮らせるようになること、健康で過ごせるようにと子どもながらに必死だったと思う。

幸い弟は命をとりとめ、1年半ほどの入院で退院できた。そしてしばらくして今度は父が蓄膿症で入院することになった。だから私の小学生時代は家族の病気続きだった。

母はお金の愚痴も私達によくこぼした。「あんたたちにもお金がかかる」と。まるで私達がいけないような感じがした。

保険をかけていなかったのですべて病院の支払いが実費だったのも理由の一つだったと思う。でも小学生の私達にはどうにもできない問題だった。祖母も援助してくれなかったので母の恨みは余計ひどくなったようだった。こうしてますます虐待は進んでいった。

コメント

  1. Andrea より:

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