おととい上の子が隣の子に棒でつつかれ、目の上を腫らして帰ってきましたがやっぱり隣の奥さんに言うことにしました。場所が場所だけに危ないし、注意してもらいたいなと思って。「言いにくいことは笑顔で言う」と銀座のママの処世術に書いてあったので実践しました。
ちょうど子供が遠足の日で隣の子が呼びに来て奥さんも玄関に出ていたので上の子の目の状態を見せて昨日どういう状況だったか、危ないところだったと説明しました。隣の奥さんは世間話のように話を聞いていて少し対応に不満が残りましたが私自身のためにも言うべきことは言っておいてよかったと思いました。
隣のKくんはたぶんママに怒られるのが嫌でうちのTをおいて先に学校に行ってしまいました。私がKくんの後ろ姿に「先行っちゃうのー」と声をかけたら奥さんが「「遠足だから遅れるとおいて行かれるよ」と朝いったから急いでんのよ」と言いました。私は「なんかケガのこと避けるみたいに話をすりかえていない?」と思いましたが穏便にと思ってできるだけにこやかに言いました。
男の子同士だからいつ家だってよそ様の子供にケガをさせるかわかりません。だからそれはお互い様だと思っています。でも私だったらまずはともあれ謝ると思うなあ。あんまり強く言ってしまっても角が立つし難しいです。
子供の時こうしたトラブルを親が身をもって示してくれればよかったのかもしれないけど家の親は自分の子供がケガしてきても自分のいいたいことは我慢して相手のいいなりでした。
そしてあとから子供に「なんでこんなトラブルを起こしたんだ。親が大変になるじゃないか。」「なんでそんなケガをするところにいたんだ。もっと要領がよければこんなことにはならなかったのに」「おまえはのろまで愚図だから」「おまえがいけないんだろう」と子供を責めました。
ケガをしただけでも痛いし、悲しいのにおまけにこのお小言です。「みんな私が悪いのね。トラブルを起こしてはいけないんだ。できるだけケガのないようにしないとまた怒られる。」と思っていました。
だから当然子供同士の遊びにも慎重になります。冒険なんてとんでもないことです。友達が誘ってきても「私はいいの」と断りました。遊んだとしても思いっきりは遊びません。ケガをしても服が汚れても怒られるし、それ以上に言葉の虐待が待っていたから。
後に私は自分の子供時代を振り返って「ずいぶんいろいろなところにブレーキをかけてきたなあ。自分の可能性を狭めてきたなあ。」と思いました。でも子供は親に逆らうことはできないのです。逆らうことは見捨てられることを意味しました。「お父さん、お母さん私を抱きしめてよ。大変だったねっていってほしい」となんど子供心に思ったことでしょう。そうすれば安心できたと思うのですがいつも母は心ここにあらずでした。
だから妹は自分の話をきいてくれる隣の叔母に「今日ね、学校でこんなことがあったんだ。明日こんな物を持っていくの」と話します。すると家に帰ってから妹は安心しきって母には言うのを忘れるのです。すると虐待され、怒鳴られるのです。「なんでおばちゃんに話して私には話さないのっ」と。
今私が母親の立場になって考えると母は私以上に未熟な母親で何にも見えていなかったんだなあと思います。たぶん自分のことで精一杯。妹を預かってくれる叔母の悪口もしょっしゅうでしたし、私は叔母がいい人か悪い人か混乱する始末でした。
この間、その叔母の伴侶が亡くなり、お参りに行くとその話が出て母の批判をし、「あななたちのお母さんはご飯が10時頃で遅かったからよく家でご飯を食べていた。」といいました。でもそんなに叔母の家にしょっしゅう行っていたわけではないのです。
母にはできるだけ親戚の家に行くことは禁じられていました。だからいまだにいとこ同士のつきあいがないのです。弟のお嫁さんのAさんがとても不思議がっていました。一応挨拶はするけどどんな生活をしているのかなんて全然解りません。父は10人兄弟なのに。ここからして機能不全なのかもとAさんの言葉を聞くまでもなく思いました。
隣の叔母だって頻繁に行われたあの虐待の声は聞いて知っていたはずです。それでもしらんふりでした。母の悪口は私たちに言うけど私たちを母の前で庇ってくれることはなかった。大人になってから叔母はやはり知っていたんだと再確認して少なからずショックを受けました。
こうしたことから私は子供が小さいときから遊ぶときは思いっきり遊ばせました。服が汚れても子供の成長にはかえられないと思いました。母は自分の洗濯が増えるのをとても嫌がりました。でも子供が成長するためには思いっきり遊んでいろいろな体験を積むことが大事なのです。
ケンカの体験も将来、自分がさまざまなトラブルを解決していく上で必要なことです。子供が自分の力で様々な困難を乗り越えるために親は手助けをするのだと思います。これに関しても母は私たちを自分のレールの上に乗せました。はずれると虐待やののしりが待っていました。
でも本来は、子供の人生です。子供が自分で選んで自分で歩くのが当然です。それを見守るのが親の仕事。できなければ手助けし、応援する。そういったことを積み重ねて大人になっていくのだと思うのです。そうした体験がないまま、私の兄弟は大人になりました。
両親は自分の仕事が増えるのがいやだったのだと思います。というより、処理の仕方がわからなかったのかもしれません。だからそういうことが起きると親戚のおじや叔母を呼んで親族会議及び、弟に説教してもらったのだと思います。
親が人に謝ったり、トラブルを処理したりすることは子供の成長の過程だとは思わずに子供自身が悪い子だと思っていた。ましてけなすことはあっても自分が子供の安全地帯になるという考えはなかったと思います。
うちは両親もACです。だから自分が親に甘えたかったのでしょう。そのゆがんだ愛を私たち兄弟に与えたのだと思います。
こうして自分の歩んできた道を振り返るのは痛みが伴います。でも母のような大人子供にはなりたくない。だから私はこの試練を乗り越えていきたいと思っています。
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