本記事では本記事では毒親育ちから回復するために
必要な事柄【共依存】について
毒親育ち50年以上の私がお伝えします。
私は、25年前に試行錯誤して結婚して子育てしましたが
毒親育ちにかなり苦しめられました。
今回の共依存を心に留めて
一歩踏み出せばあなたはよけいな回り道をせずに
機能不全家族から回復することが可能になります。
最後まで読んでみてくださいね。
友人の死
厳しいレッスンに耐え、高校卒業後、私は大学に入学
しました。
専門は音楽であったけれど専門以外の授業も多く、私
は多くの時間を友人達とともに過ごしました。
広いキャンパスでの学生生活は活気に満ちていて、体
育の授業では大勢の男子にまぎれてソフトボールをや
ったり、バレーボールやレスリングの授業も受けまし
た。
ドイツ語や英語の授業では友人達と頭をつき合わせて
予習に明け暮れたり、音楽の練習に没頭したり、本当
に充実した4年間だったと思います。
特に私達の学年は個性豊かなメンバーがそろっていて
子どもがいて入学した人、外国人、留年した人、退学
したけれど復学した人などいろいろな人が集まってい
ました。
もともとどの学年も少人数でアットホームでしたが特
に私達の学年はいくつかのグループに分かれてはいて
もみんなどの人も友好的で全員最後まで助け合って卒
業しました。
そんな中、帰る方向が同じで自宅通学のTちゃんと仲
良くなりました。
彼女は小学校4年生からピアノを始めて高校は私立で
奨学金をもらっていたという特待生でした。
几帳面で努力家、やさしくて思いやりがあり、ちょっ
ぴり頑固な一面も持っていました。
お父さんはもと新聞記者、当時は女子高の先生で博識
家、お母さんも優しい方でした。
彼女はピアノ科、私は声楽科でよく伴奏もしてもらい
ました。
ただ、難点は一生懸命すぎて彼女のピアノに歌がつく
ようになってしまい、歌いにくいことでした。
そんな訳で違う友人にも伴奏をお願いしたこともあり
ましたがそんなときでも彼女は嫌な顔をせず、理解し
てくれる寛大な一面も持っていました。
そうかと思えば教育原理の先生が嫌いだからと出席表
を私達に頼み、テストはノートを写して挑み、自分は
ピアノの練習に行ってしまうという、頑固な一面も持
ち合わせていました。
でも彼女とは気が合い、いろいろな話をしました。
それはお互いに相性の合わない専科の先生が嫌で励ま
しあっていたからということもあったかもしれません。
また私が母の批判をしても唯一理解を示して聞いてく
れたのも彼女でした。
ただ、彼女の恋愛関係のことは絶対タブーという暗黙
の了解があり、踏み込めない部分もあったのも事実で
す。
それから卒業後、彼女は音楽教室の先生とともにさら
に伴奏の勉強をするため、学生という2足のわらじを
はいて頑張っていました。
あるときふと彼女から「老人ホームで音楽会をしよう
と思うんだけどやらない?」と電話がありました。
それから私が結婚するまで約6年間、毎年2回同じ大学
の先輩や後輩と一緒にそこを訪れるようになりました。
普段は音楽とは別の仕事をしていた私にとって友人達と
たまに会えるのは嬉しかったし、音楽会が終わった後、
お互いの近況や将来のことなどを話したりしました。
長い間にはその中の先輩が大企業をやめてそこの職員に
なったりしてメンバーは少し変わりましたが彼女が調整
してくれて実質リーダーのような役割をしてくれました。
老人ホームといってもまだご自分で動ける元気な方ばか
りなのですが終わった後、一緒にお茶を頂くとき人生の
悲喜こもごものお話を伺い、お年よりも私達の訪問を喜
んでくださいました。
老人ホームで演奏する前に彼女に伴奏してもらい、練習
をするので学生時代のまま、お互いの家を行き来してい
ました。
その後、彼女はロシアに留学しました。
彼女が留学していたのはちょうどロシアが混乱期で帰国
した直後に貨幣価値が上がったのでもう少しで帰れなか
ったとあとでききました。
繊細だけど大胆で勇気のある人でした。
それからしばらくしてバイオリンとピアノのデュオでコン
クールに入賞し、私のところにも電話がかかってきました
がちょうど出産したばかりだったので行けずじまいでした。
老人ホームの音楽会もメンバーが入れ替わり、彼女と後輩
3人でやっていて「また落ち着いたらやってね」と言葉を
かけてくれていたので私は安心しきっていました。
その時私は家を建るのに奔走していましたし、たまに彼女
の家の近くを走るとき、「Tちゃん元気かなあ」と夫と話
していました。
「家を建てて落ち着いたらきてもらおう」と考えていたの
です。
その電話は深夜家にかかってきました。
以前老人ホームで一緒にやっていた先輩からでした。
先輩はその老人ホームに何年か勤めていましたが「何か理由
があってやめたみたい」とTちゃんからきいていました。
先輩は泣いているようでした。
「いまTちゃんのお母さんから手紙がきて知ったのだけど
Tちゃん亡くなったんだって」といいました。
私は「うそ」と連呼することしかできませんでした。
先輩は「本当なんだよ」と繰り返し言いました。
私は電話を切った後、呆然として放心状態でした。
千の風になって
彼女が亡くなってからだいぶたちますがまだ私の
心は整理しきれていません。
彼女のご両親にあってお話も伺ったし、お墓にい
ってお参りもしてきたのにまだ信じられないので
す。
それは彼女の死後、ご家族が密葬されたのでお別
れに立ち会えなかったというのもあるかもしれま
せん。
半年後、お母さまは悩まれて「みなさんご家庭を
持ってお忙しいでしょうから」という理由で独身
の先輩に白羽の矢が立ち、手紙を書かれたようで
した。
私は先輩から連絡を受けて迷いながら、次の日お
母さまに電話をしました。
お母さまは彼女と声がそっくりで話し方もつぶや
き方も似ていらっしゃるのでお電話でお話してい
ると彼女のことが思い出されて私はおもわず泣い
てしまいました。
お母さまはやさしく「Iさんは、泣いてくださる
のね」とおっしゃって言葉に詰まっておられまし
た。
その後、迷いましたが学生時代同じグループだっ
たKちゃんに電話しました。
Kちゃんは体育の授業が縁で結婚した夫がいて私
達もよく一緒に遊んだので話しやすいということ
もありましたし、また彼女も私の伴奏をよくして
くれていたので気心がしれていたからというのも
あります。
Kちゃんは驚いてショックを受け、やはり同じグ
ループのNちゃんにすぐ電話をしたようでした。
次の日Nちゃんから私のところへ電話がきました。
このことが先輩の怒りに触れてその後、私は怒ら
れてしまうのです。
先輩とは亡くなったTちゃんの家に行くことにな
っていたので電話でその話をすると
「何でしたの?私は老人ホームのメンバーにしか
してないよ。Yちゃんだって半年黙っていたのに。
ご遺族の気持ちがわからないのっ」
といわれてしまいました。
老人ホームの後輩のYちゃんは県外にお嫁にいっ
たのですが結婚前はTちゃんと同じ職場だったの
で職場のひとから連絡がいって亡くなった直後、
話は知っていました。
でもTちゃんのご両親から口止めされて黙ってい
たとYちゃんは先輩に言ったらしいのです。
そんなことは知らなかったので私はご両親をよけ
い悲しませてしまったのかと自分を責めました。
Yちゃんに電話すると「ああ聞いたんですね。」
と落ち着いた対応でした。
そして少し怒っているように聞こえました。
実はTちゃんが亡くなってお家に伺ったとき、T
ちゃんのお母さまに「Yちゃんがそばにいてくれ
たらよかったのにねぇ」と言われたらしいのです。
「でも両親がどうにもできないのに私達がどうに
かできるはずがないじゃないですか」とYちゃん
はいいました。
そして「私だってTさんに「携帯持とうよ」と提
案したのにそのときはコンクールに夢中で「忙し
いから」っていわれたから「メールがあるよ」っ
ていったのにそのときはぜんぜんとりあわなかっ
たくせに。」と彼女にしてはめずらしく声を荒げ
て怒っていました。
後に私もお家を訪問したときお母さまからそうい
われましたが、それは「もしそうだったらTは生
きていたかもしれない」というお母さまの正直な
気持ちでつい口に出てしまったのだと私は理解し
ました。
多少私達を恨むことはあったかもしれませんが心
情を思うとき、責められるべきことではないと思
いました。
でもTちゃんとYちゃんは先輩後輩の仲をこえて
友人として付き合っていたので何も相談なしに逝
ってしまったTちゃんにYちゃんは怒っていたの
かもしれません。
私がKちゃんに電話したのは先輩とは学年が違う
し、分かりえない部分もあったので同じ学年の親
しい友人達と悲しみを分かち合いたかったという
のが本当のところです。
その後、先輩とはTちゃんの家にいきましたがこ
れがもとで疎遠になってしまいました。
また先輩は社交家なので自分が連絡したかった、
というのもあるみたいでした。
でも表向きに先輩は次のように私を責めました。
「私は老人ホームに勤めていたので死というも
のが身近であり、それは家族しかわかりえない
ことでそっとしておいてほしい気持ちにあなた
は触れたのよ」と。
Tちゃんのことでも悲しいのにそういわれて余
計苦しくなってしまいました。
このことはTちゃんのお母さまにはいいません
でしたがTちゃんの死について「お友達にどう
やって知らせればいいのかしらと思っているの
よ」とおっしゃったので「私が知らせました」
とお伝えすると「そうよかった」と安堵して感
謝してくださいました。
Nちゃんにその話をすると「亡くなってから半
年たってご両親もお話してくださる決心をした
のだから先輩の言うことは気にしないほうがい
いよ」といってくれました。
それから先輩のところに電話して「同級生でお
花を贈ることにした」と連絡してくれました。
Nちゃんも1年ほど前にお父さんを亡くしてい
て喪中のはがきがきたのですがそれを見たTち
ゃんがNちゃんになぐさめの電話をしていたそ
うなのです。
彼女は友人達に押し付けがましくなく、そっと
人の気持ちに沿うようにそういうことをしてく
れる人でした。
そのことを聞いたとき本当はTちゃんが誰かに
助けを求めていたのかもしれないと思って胸が
詰まってしまいました。
Tちゃんのご両親は悲しみの表現が対照的でし
た。
お父さまは病気のため、目がほとんど見えない
のですが私達がお家を訪問すると歓迎してくだ
さり、お参りしてすぐおいとまする予定だった
のですが、3時間ぐらいずっと話しつづけられ
ました。
Tちゃんを「あの世にいって叱ってやるまでは
おれは絶対泣かない」
とおっしゃてその心の緊張感がよけい悲しさを
誘いました。
お母さまは以前お会いしたときより、ずっと痩
せられて触れるのが痛々しい感じでした。
毎日遺品の整理をしているということで、「ど
うしようかと思っているの。主人は早く片付け
ろというのだけれど。よかったら形見に何か持
っていってくださらない?」とおっしゃいまし
た。
私は学生時代彼女が一生懸命練習していたベー
トーベンやバッハの真っ黒に書き込まれた楽譜は
見るに耐えられなかったので「子どもの曲集」を
頂くことにしました。
家に帰ってそれを弾いてみましたがどの曲もさみ
しくて悲しい曲ばかりでした。
その後、用があってKちゃんに電話したとき、T
ちゃんの話がでて「Tは学生時代からなんかさみ
しそうだったよね」といいました。
私はその言葉であの遺品にもらった「子どもの曲
集」を思い出しました。
そしてそのとき、「彼女はさみしかったのだ」と
気がつきました。
アダルトチルドレンの私には人間関係はこれから
も課題だと思っています。
彼女を思い出す大好きな曲です。
↓
千の風になって
普通家庭にも共依存問題は隠れている
とき、お二人とも「Tは心が弱かった」とおっし
ゃいました。
しょうか?どんな人も気弱になってしまうことが
あるはずなのです。
ってしまったということなのだと思いました。
依存症だったのではないかと思い当たったのです。
父さんが亡くなられて「親はいつか死ぬのだ」と
いうことに気が付いてからだった」とおっしゃっ
といっていました。
なかったし、前進していくことが成長するという
ことだと感じていたので「そうなの」と受け止め
はしましたが心の中でその考えに同意していませ
されていたと思います。
行きたい、留学したいといったときも送り出して
あげたのだと思います。
実力の差が決定的にみえてしまって落ち込み、命
を落とす結果になってしまったのでは、とお母さ
まは後悔されていましたが私は「そうではないで
すよ」と理由をお話しました。
はどうだったのか今では分からないことです。
るし、ご両親に失礼なことなのかと考えました。
糸口になればTちゃんやご両親もきっと喜んでく
となるのです。
決していって欲しいと心から願っています。
まとめ
こうした共依存から回復するのは
自分自身が強い意志を持って
自分の問題に取り組む必要があります。
いずれにせよ、まずは自分が生きづらい原因を
見つけることが大切です。
また、自分だけで解決が難しいなら
心理カウンセラーに相談することをおすすめします。
回復への手助けもしてくれます。
ただし、デメリットとして料金が継続的に
かかります。
そんなときはこちらをおすすめします。
過去の鎖をはずし、自由になるために。
過去から逃げずに幸せになる方法
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